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院長 恒川 洋


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       ちいさなちいさなしあわせみつけた  一中溝裕子さんの場合一

★元気娘を10万人に1人の難病が襲う
絵門ゆう子さん、高橋求さんと続いた『自立した「患者」さんたち』シリーズの最後にご登場いただくのは、女子プロゴルファーの中溝裕子さんです。今回の原稿は雑誌「致知」(2003年4月号)の特集“人間力を養う"の中で、インタビュー形式で中溝さん自身が語られた内容を資料としました。

中溝裕子さんが血液の難病である「骨髄異形成症侯群」と診断されたのは、女子プロになって3年目のことでした。公式戦出場の機会も増え、本格的な活動を開始した矢先のことだったのです。

この病気は別名「不応性貧血」とも呼ばれ、通常の貧血の治療では治らない慢性の進行牲造血障害であり、高率に白血病に移行することから前白血病状態と考えられています。なんとなく体がだるくて、変な咳が出たり、ちょっと擦っただけで体のあちこちにアザができる。プロゴルファーなので色は真っ黒なはずなのに周りからは、「顔が青白いよ」と言われたりして、自分でも何かおかしいと思い精密検査を受けたのでした。

そして、医師から「“骨髄異形成症侯群"という白血病に近い10万人に1人の難病です。効く薬もなく、生存できるのはせいぜい5年。助かる道は唯一、骨髄移植しかありません」と言われました。突然の難病と余命告知に、さすがのスポーツ大好きで元気一杯、体育会系のネアカ人間の中溝さんも大変なショックを受け、目の前が真っ暗になりました。そして「自分の人生は終わった」と思ったのでした。それからは自暴自棄な日々が続きました。

本をビリビリに引き裂いたり、障子を破いてみたり。さらには「神も仏もないのか。私が何をしたというのか」と仏壇を壊してしまったこともあったそうです。また、一日中部屋に閉じこもり暗い音楽ばかり聴きながらトランプ占いを続けたりと、その時の中溝さんは絶望感から死ぬ事しか考えていませんでした。そんなひきこもり状態は2ヶ月以上に及んだのです。

★妹からの骨髄移植を決意する
そんな絶望感に苛まれていたある日、中溝さんの心に突然、「これは本当の私ではないのではないか。ひょっとしたら治るかもしれない。自然治癒力が人間にはある。それを引き出せたら難病だとしても死ぬことはないんではないだろうか」という思いが生じました。

幸い三歳年下の妹さんとHLA抗原とかMHC抗原と呼ばれる、いわば骨髄や血球の型が適合していたので、骨髄移植は可能でした。 「不安を引きずって5年間生きて、もし何もなかったら馬鹿みたいではないか。自分の気持ちの中に余計な心配をつくるのはよして大丈夫だと信じてみよう」と思ったのでした。

そして不思議なことに、大丈夫と思った瞬間、彼女の目の前に明るい光がパーッと差し込んできたのです。まるで体に張り付いていた鉛がポロポロ取れてスキッと軽くなった感じがしました。その時、中溝さんは「前向きな気持ちに変えることで、体まで変わるというのはこの感覚なのか。よし、これでやってみよう」と気持ちの転換ができたのでした。

実は中溝さんは骨髄異形成症候群と診断された後もゴルフは続けていました。まだ骨髄バンクができたばかりの頃で、あまり一般的ではなかった骨髄移植に対する恐怖感もあり、病気を引きずりながらもクラブを握っている時だけが唯一、病気から気持ちが解放されていたのです。そこで、貧血がひどくて何度も輪血したり、肝機能が悪化して主治医からこのままだと肝臓が機能しなくなって移植もできなくなると警告されても、なかなか移植に踏み切ることができませんでした。

しかし、ようやく気持ちが前向きになり、骨髄移植を受けようと思った時に、さらに背中を押してくれたのが角界の阿武松親方(元・益荒雄)でした。おかみさんのプロゴルファー・奥村久子さんと親しくしていた関係で、親方と知り合ったのです。

 白血病で骨髄移植を体験していた親方は、「おまえ、ゴルフしたいんだろう。それなら自分を信じて、医学を信じて移植を受けてみろよ。必ずうまくいくよ。俺が保証してやる」と励ましてくれたのでした。 その言葉が中溝さんの胸にバーンと響き、移植に踏み切る決断ができました。

移植をすると決めた時、「もう逃げないで治療に専念する」と心に誓うと共に、「絶対に治る。間違いなく治る。治って当然だ。治る権利がある」と何度も念じました。そして、中溝さんは平成9年に妹さんをドナーとして骨髄夢植を受けられました。'

★想像を絶する移植後の重篤な合併症(GVHD)に苦しむ
 強カな抗がん剤と放射線治療で自分の骨髄を破壌してから行われた骨髄移植は、幸いにも移植自体はうまくいぎました。移植された妹さんの骨髄がすぐに機能して、新しい血液をドントン造り始めました。妹さんからもらった髄液が一滴、一滴中溝さんの中に入っていく様子を無菌室のガラス越しに見ながら感涙にむせび泣いていたご両親の姿が、いまも彼女の瞼の奥に鮮明に焼きついています。

自分の細胞が日に日に再生されるのが実感されるので、中溝さんは3ヵ月位で退院して、またゴルフを再開できるかな、と思っていたそうです。

しかし、妹さんの骨髄といえども、やはり他人の細胞だったのです。移植から100日位経った頃から、口の中がケロイドのようにただれ始めました。水一滴を口に入れただけでも大変な激痛が襲い、口を開けることすらできなくなってしまいました。

主治医が慌てて飛んできて、「残念ですが移植後の重い合併症である移植片対宿主病(GVHD)が出ました。治るのに2,3年はかかるでしょう」と言いました。ようやく抗がん剤による強い吐き気などから解放されて、白いご飯がお腹一杯食べられるなと思っていた矢先のことでした。中溝さんは、またしても深い谷底に突き落とされてしまったのです。

それからは、想像を絶する生活が始まりました。固形物どころか水すら飲めないため、毎日点滴が投与されました。口からものを入れずに点滴だけで命をつなぐ日々が、何と約3年間続きました。人一倍食べることが好きだった中溝さんが、3年間まったく食事を口にすることができなかったのです。一日中食べ物のことばかり考えたり、テレビの料理番組を観ていました。目からでも食べたいという想いで。

その当時、点滴からの栄養分しか与えられない体の60兆個の細胞に「ごめんな、元気になったら、ラーメンでもカレー]でも腹一杯食べさせてあげるからね」と懸命に語りかけていたそうです。もちろん、何度か食べてみようと試みましたが、あまりの激痛に食べるどころか、まともに口を開けて話すこともできないようなありさまでした。
けれども、中溝さんの苦しみはそれだけでは終わらなかったのです。

★免疫抑制剤による激烈な副作用が加わる
 3年の間、食事が一切摂れない生活を余儀なくされた中溝さんでしたが、追い討ちをかけるように免疫抑制剤による苛酷きわまる副作用が襲ってきました。

骨髄移植を受けた患者さんには移植後のGVHDなどの合併症つまり拒絶反応を抑えるために大量の免疫抑制剤が投与されます。免疫を抑制すると拒絶反応は治まりますが、当然のことながら免疫力や抵抗力は極端に低下します。免疫カが下がると様々な感染症に罹り易くなります。普通なら感染しない感染性の弱い細菌からウイルス、さらにはカビ(真菌)などによる感染症に容易に罹ってしまうのです。

中溝さんにも肺炎、肝炎、腎盂炎、胃炎などが次々と襲いかかりました。特にひどかったのが、出血性膀胱炎でした。 膀胱炎による頻回の血尿、残尿感などに加えて激烈な痛みが持続するという、骨髄移植を受けた患者さんを苦しめる代表的な合併症の一つです。

 中溝さんは1年半もの間、出血性膀胱炎に苦しめられました。口の中の痛みに加えて、グーという膀胱の痛みが続きました。痛み止めを使っても次第に効かなくなるため、だんだん強い鎮痛剤になっていき、最後はモルヒネ系の鎮痛剤を使用せざるを得ませんでした。

最初の何ヵ月かはお母さんが付き添いに来られていました。モルヒネのため常にボーとした状態の彼女はお母さ々が来られると目を開けて目で会話をして、帰られるとまた眠りに入るという日々が続きました。さらに、紫外線に当たるとGVHDが悪化するのでカーテンを閉め切った暗い病室の中から、一歩も出られない入院生活を送られたのでした。

★発狂寸前の闘病生活の中で考えたこと
強力な抗がん剤と放射線治療に引き続く骨髄移植、移植後のGVHDなどの合併症、さらには免疫抑制剤による激烈な副作用という、まさに生き地獄のような闘病生活が2年半も続きました。私が中溝さんにお会いしたのは、その最後の頃だったと記億しています。私の講演会にお越しになっておられ、終了後の食事会で「固形物は痛くて口に入れられないのです」と言われながらペットポトルの水だけを飲んでみえた痛々しい姿を思い出します。

皆さんの中にも口内炎ができたり、膀胱炎に罹ったことがある方もおられると思います。そんな時、食べ物が口内炎に触れて痛い思いをしたり、頻尿や残尿感など膀胱炎の症状に不快な気分になったことでしょう。

しかし、それらの症状も通常は数日のうちに自然治癒するか、抗菌剤の投与で治ってしまいます。これは“免疫カ''などの“自然治癒力"のお蔭です。たかが数日のことであっても本当に嫌なものですが、私たちの中には「いまは辛いけど、いつかは治る」という確信のようなものがあるのではないでしょうか。

ところが、中溝さんにはその「いつかが、いつなのか?」'まったく分からなかったのです。では、彼女はどんな気持ちで毎肩を過ごしていたのでしょうか?インタビューの中で中溝さんは、こう話しています。
 「本当に痛いし、苦しいし、髪の毛は全部抜けるし、内臓も口も目も鼻ものどもやられる。曲がりなりにも私はプロのスポーツ選手ですよ。それが立って歩くこともできない。しかも、この苦しみがいつ終わるかも分からない。一歩間違えると発狂したかもしれません。

ぎりぎりの状態の中で弱気になった自分に言い聞かせていたのは、マイナスのことは考えないようにしようということでした。妹からもらった骨髄でこうして生かされているじゃないか。神様が食べさせていいと思ったら食べさせてくれるだろうし、元気にさせようと思ったら退院もさせてくれるだろう。それまではじっと我慢しよう、と気持ちを明るく持っていったんです」。

中溝さんは、最悪の状況を感謝の心で乗り切ろうとされたのでした。「でも、辛かったですからね、神様に対しても『もし、この状況が私に必要だというなら、素直に受け入れます。でも、元気になった暁には人の何十倍も、何百倍も楽しいことを準備しておけよ。それまでは耐えてみせる。憶えておけよ、この野郎』といった感じで(笑)。」

★絵手紙に込めた生きる喜びと感謝の思い
こうして耐えに耐え忍んだ中溝さんが待望のカツカレーをようやく口にできたのは平成14年の6月のことでした骨髄移植から5年の歳月が経っていました。「そのおいしさはとても言葉で表現できませんね。

『頑張ってよかった。負けないでよかった。神様からご褒美がいただけた』と素直に思いましたもの。私は元気を取り戻したいま、ご飯を食べられること、一人で歩けること、クラブを握れることがどれほど素晴らしいものか、ということをしみじみと実感しているのです。そして何よりもありがたかったことは、闘病生活を通して、数多くの素晴らしい方々とのご縁をいただいたことでしょうね。神様は約束通り、人の何十倍も何百倍もの喜ぴを私に与えてくださったんです」。
 
 私たち常人には考えることすら恐ろしく凄まじい心身の苦しみを体験された申溝裕子さんは、不治の病を見事に克服されました。 現在は、「前向きな気持ちの大切さ」を伝える講演活動や骨髄バンクの支援活動を精カ的にしておられます。

平成15年7月には念願のゴルフのラウンドも7年ぶりに果たすことができました。 なお、本年度の当クリニックの公開講座「死生観を語ろう」にも10月22日(金)にゲストとしてご登場いただく予定です。

また、中溝さんは入院生活中に始めた闘病を通して得た様々な思いを絵手紙と筆文宇という形で表現されています。初めはその時々の思いを、自分を励ますつもりで描いておられたそうですが、病棟の看護師にあげたことがきっかけとなって、病院の談話室にも飾られました。体験に裏打ちされた珠玉の言葉を見た患者や家族だけでなく、看護師までもが「頑張るよ」という気持ちになったと涙を流されたのです。

 独特のタッチと味わいのある中溝さんの絵手紙と筆文宇はその後大変な反響を呼び、本として出版されたり、個展も開かれています(なお、これらは筆文字や絵手紙カレンダーとして発売されています。マイン
ド・コスモにありますので是非、ご購入下さい)。

 病苦との壮絶な闘いの中で中溝さんが気づき、学ばれたことを、最後に記します。「私が病から学んだことは一つには前向きな心です。自分の気持ちをどこに向けるかということです。立ち止まると景色は一緒なので、一歩進んで栄光を掴み取る、ということですね。

そしてもう一つは、私もそうだったように、人間は一人では生きていけませんから常に『ありがたい』という心を持つことだと思っています。その気持ちが重なると相手も心を開いてくれ、すさんだ世の中が少しでも変わっていくのではないでしょうか。

私たちの前には、いつもその時必要なハードルか現れます。それは神様が『このことに気づきなさい』と与えてくれるハードルなのかもしれませんが、それを乗り越えると、さらに自分の魂が磨かれていくように思うんです」。
   
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